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●ワークショプに集まったカンボジアの学生と指導教師、タイの放送局MCOTとDPUの面々
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JB Press 2014.04.28(月) 金廣 純子
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/40502
日本もアジアも同じ、ロボコンにかける学生の熱意確実に未来につながった第1回大会
~カンボジアでロボコン!?(21)
第1回大学対抗カンボジア・ロボットコンテスト(以下ロボコン)がいよいよ開幕した。
予想を上回る参加学生たちの活躍で、会場は熱気と興奮に包まれたまま、午前中の1回戦は終了。
昼食休憩を挟んで2回戦開始となるのだが、私には気がかりなことがあったのだ。
■2回戦の参加チームは揃うのか、そして結果は・・・
カンボジア人は、こうした勝負事では勝ちにこだわるあまり、「負ける」とわかったら最後、途中で参加するのをやめて帰ってしまう、と国営テレビ局の副局長“殿様”は当初から言い続けていた。
1回戦で完走できなかったチームは約半数。
もし彼らが昼食休憩の間に帰ってしまったら、こんなに盛り上がった雰囲気がぶち壊しになってしまう。
しかも、そうした懸念があったにもかかわらず、私は2回戦にあたっての参加チームの再登録の指示をスタッフたちに出していなかったのである。
数組帰っただけでも、恐らく進行は大混乱になる。
どうしよう・・・?
しかし、昼食時にも審査のとりまとめやら、スコアの集計チェックやらに追われ、対策を考える時間もない。
そうこうするうちに2回戦スタートの時間がやって来た。
ところが――2回戦が始まっても、誰1人として帰る学生はいなかったのである。
●2回戦が始まってもスタジオの熱気は変わらなかった(撮影:清水千恵実、以下同)
1回戦でピクリとも動かなかったロボットを片手に2回戦に登場し、「やっぱりまだ動きません」といかにも楽しげに、しかも堂々と言った学生たち。
1回戦で失格してしまったのに、きちんと再調整して2回戦では見事に走りきらせた学生たちもいた。
スタートラインを前に動かないロボットを、制限時間2分以内で何とか走らせたいと、工具を取り出して調整する学生たちもいた。
あと10秒のカウントダウンが始まっても、その手は止まらず、表情は真剣そのものだった。
1回戦では調子が良かったが、昼食を挟んで調子が悪くなり動かなくなってしまったと言って、大事そうにロボットを持ってきた学生たちもいた。
スタートラインに置いた途端にくるくると回ってしまうそのロボットを、あきらめずに何度も何度もスタートラインに置き直す。
それは制限時間の2分間続いた。
そこに共通するのは、自分が苦労して作り上げたものを見守る愛おしげな視線だった。
そして、参加した誰にも「笑顔」があった。
●ピットでスタジオの様子を見守る
●モニターを見て歓声を上げるピットの学生たち
私たちの心配は杞憂だったのだ。
カンボジアだから、カンボジア人だから、ということなどないのだ。
楽しいものは楽しい。
自分が苦労して作ったものには愛情が湧く。
それを学び、そしてともに体験するのがロボコンなのだ。
そして、最後まで1人の途中欠場者もなく、41チームすべてが2回の走行を終了した。
結果は、1回戦で27秒という最速タイムだったNPIC(カンボジア国立工科専門学校)のチームが、2回戦ではさらにそれを上回る26秒という出場チーム中最速記録を叩きだし、文句なしの優勝。
しかも、1回戦失格となっていた別のNPICのチームが、2回戦では27秒を記録して、突如2位に浮上。
結局、ITC(カンボジア工科大学)圧倒的有利の下馬評を覆し、1位、2位をNPICが、さらに技術賞もNPICが受賞するという圧倒的勝利に終わったのである。
■カンボジア初のロボコンを支えた人々
気づいてみれば、予想以上のスピードレースになったため、収録時間は巻いて(早く進行すること)いた。
予定していた閉会式までに少し時間があったので、私は殿様にこう頼み込んだ。
「殿様、巻いているので、私に15分時間をください」
会場にいるすべての人たちに笑顔があった。
参加した学生たちの表情には達成感も感じられた。
その来賓や、学生たちの前で私にはどうしても伝えたいことがあったのだ。
まず、ピットにいる学生たちに全員スタジオに集まってもらった。そしてこう言った。
●コンテスト終了後に勢揃いした各大学の指導教員たち
「皆さん、お疲れさまでした。
とても良いロボコンになったと思います。
このロボコンを作り上げたのは、もちろん、ここに参加してくれたあなたたち学生です。
でもそれを支えてくれたのは、参加各大学で指導してくれた先生方です。
先生方は通常の業務をこなしながら、今回の大会のために特別に時間を割いて、学生たちを指導し、ここまでロボコンを作り上げてくれました。
その先生方をここで紹介したいと思います」
そしてスタジオの片隅にいた各大学の指導教員たちに壇上に上がってもらった。
最後の最後まで強く自分の意見を主張し続けたあのITCの教員は(「最後の最後にやって来るカンボジア的主張の謎」参照)尻込みして最初出てこようとしなかったが、私は彼を引っ張ってきて真ん中に据えた。
ここまで彼とはいろいろあったけれど、今は一緒にロボコンを作り上げた仲間になったのだ。
彼らのうちの誰か1人が欠けても、カンボジア・ロボコンはここまで来ることはできなかった。
先生たちの言葉はクメール語だから私には相変わらず分からない。
でも学生たちからは割れるような拍手が一人ひとりに贈られた。
さらに、コンテストのこの日、レフェリーとタイムキーバーをボランティアでやりたいと申し出て、最後までその任務を全うしてくれた学生たち8人も紹介し、感謝の意を表した。
勝った学生には賞賛と賞杯が与えられ、負けた学生にはエールが贈られる。
すべての参加学生には(殿様こだわりの)参加賞が、スポンサーやドナーにはテレビ局から感謝状が、この後の閉会式で贈られる。
それと同じぐらいの感謝の気持ちを、この指導教員たちとボランティアの学生たちに表したいと思ったのである。
私は、権威に全く興味が無い。
だから大臣の名の下の感謝状も優勝カップも賞金も、正直言って何の興味もない。
何より、それを与える立場にもない。
だから、自分の感謝の意をこうして表すのが私流だし、こういう方法でしか表せなかったのだ。
閉会式もつつがなく、そして、各賞の授与式も大興奮のうちに終わり、こうして第1回カンボジア・ロボコンは幕を閉じた。
■準備に10カ月を費やした1日が終わる
本当にいろいろな人に助けてもらったロボコンだった。
このコラムには書ききれないほどの人々の善意に支えられてきた。
快くスポンサーやドナーになってくださった日系企業や個人の方々には、金銭面だけでなく、本当に苦しい時に何度も助けていただいた。
最後はスタッフでたった1人の日本人になってしまった私を、クメール語、英語、日本語を駆使して通訳としてコーディネイトし、仕上げの1週間、ともに悩みながら大会を作り上げてくれたサムナンさんには、どれだけ労いの言葉をかけても足りない。
そして、本当に心強いタイからの助っ人、ジョッキーさんをはじめとする放送局MCOTとDPU(トゥラキットバンディット大学)の面々がいなかったらここまで辿り着くことは到底できなかった。
●いろいろあったけれど・・・大会終了後の殿様と私
殿様も、テレビ局のスタッフもよく頑張った。
何の経験もないのに、ここまで大会が成功したのは、殿様の頑張りと、諦めずにそれに従ったスタッフたちによるところが大きい。
何より、殿様。今から10カ月前、「ロボコンを開催したいんだけど・・・」とつぶやいてくれてありがとう。
あの一言がなければ、カンボジアにロボコンは誕生しなかったし、私はお陰で本当に楽しくスリリングな数カ月を過ごすことができた。
皆に囲まれ、満足そうな殿様を遠くで眺めていて、ふとそう思った。
学生たちの嬌声とともに、記念撮影がいたるところで行われているスタジオでは、既にセットの撤収が始まっていた。
テレビとは、長い時間かけて作り上げてきても、こうしてたった1日でなくなってしまう、そういう儚さと潔さがある。
私はテレビのそんなところが好きで、そして今日ここにいる。だから、私の人生の半分をともに歩んできたテレビにもありがとうと言いたい。
すると、数人の学生たちが満面の笑みでカメラを片手に声をかけてきた。
ん?
写真撮ってあげようか、と言ったら、私と一緒に写真を撮りたいのだと言う。
ロボコンをやってよかったと改めて思った。
これが私の最大の勲章である。
■これで終わりではない「カンボジア人自身のロボコン」
第1回カンボジア・ロボコンの翌日――。
参加した学生たちを集めてのワークショップが開かれた。
これは、ジョッキーさんが2月に大学の指導教員たちと打ち合わせした際に、皆でロボコンの体験を共有し、次のロボコンにつなげるためにと提案したワークショップだ。
●コンテスト翌日のワークショップ。左端がDPUのインストラクターのトン
大会翌日の朝8時半というのに、ほとんどの学生たちが会場であるITCのレクチャールームに集まった。
タイ・ロボコンのチャンピオンチームDPUのインストラクター、トンが進行役となって、ワークショップは始まった。
まずは、各大学で一番速いロボットを作った学生たちが、自らのロボットの工夫を披露。
誰もが自信に溢れた表情で、言葉によどみがない。
昨日の笑顔の彼らもよかったが、今日の彼らは何かひとまわり大人になったように感じられる。
続いて、DPUのプイとテエが、自らABU(アジア太平洋放送連合)のロボコンに参加させたロボットを取り出して、「物を掴む」「物を運ぶ」という、より高度な技をどうやってロボットにプログラムするのかを説明し始めた。
ABUロボコンでは、この「掴む」「運ぶ」という行為は欠かせないのだという。
真剣にメモを取り、質問を繰り返す学生たち。
さらにトンが、
「皆さん、壇上に上がってロボットをもっと間近に見てください。
質問は何でも受け付けます」
と呼びかけると、学生たちはロボットに殺到。
ものすごい熱気となった。
レクチャールームの片隅でそれを眺めていた私は、これは確実に来年に、そして未来につながるなと確信していた。
ふと隣で一緒に眺めていたジョッキーさんがこう言う。
「ジュンコはずっと5年後にはABUにカンボジア代表を送りたいと言っていたけれど、案外もっと早いかもしれないよ。
タイで2016年に大会をやるんだ。
きっとその時には代表を出せるよ」
そうかもしれないね。
そうだとイイね。
そのためには、来年もそして再来年もこのロボコンをカンボジアで開き続けることだ。
その時、私はもうカンボジアにはいないけれど・・・。
すると、大会2日前に一瞬険悪なムードになった、あのITCの教員が私のところにやってきた。
「ジュンコさん、来年のロボコンについて考えがあるんですよ。
早く来年の会議をやりましょう」
次につながるといいと思っているのは、私だけではない。
カンボジア人自身もそう思っている。
いつの間にか、4大学の指導教員たちと私は、「次」について、「来年」についての話を始めていた。
将来の計画や予測を立てることが苦手と言われるカンボジア人(「どうすれば成功体験のないカンボジア人を動かせる?」参照)だが、こうして来年の話を皆でしているではないか。
第1回カンボジア・ロボコンは終わった。
でも、今日は、ロボコンの道をカンボジアに広げていく未来への始まりの1日なのだ。
ロボコンの道は、一体どんな道になるだろう?
それは、この眼の前にいるカンボジア人自身が決め、自ら作り上げていくものである。
【終わり】
金廣 純子 Junko Kanehiro
慶應義塾大学文学部卒後、テレビ制作会社テレビマンユニオン参加。「世界・ふしぎ発見!」の番組スタート時から制作スタッフとして番組に関わり、その後、フリー、数社のテレビ制作会社を経てMBS/TBS「情熱大陸」、CX/関西テレビ「SMAP☓SMAP」、NHK「NHKハイビジョン特集」、BSTBS「超・人」など、主にドキュメンタリー番組をプロデューサーとして500本以上プロデュース。
2011年、英国国立レスター大学にてGlobalization & Communicationsで修士号取得。2012年より2年間の予定でJICAシニアボランティアとしてカンボジア国営テレビ局にてテレビ番組制作アドバイザーとして、テレビ制作のスキルをカンボジア人スタッフに指導中。クメール語が全くわからないため、とんでもない勘違いやあり得ないコニュニケーションギャップと格闘中…。2014年3月にカンボジア初の「ロボコン」開催を目指して東奔西走の日々。
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