●GM破産の数年後にデトロイト市が破産した(写真の正面はデトロイトのGM本社ビル)〔AFPBB News〕
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JB Press 2013.07.30(火) Financial Times
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/38341
欧州よ、米国に学べ:見込みがなければ破産させよ
(2013年7月29日付 英フィナンシャル・タイムズ紙)
米GM、連邦破産法11条申請へ
かつての偉大な都市デトロイトの破産は、この「モータウン」の伝説的な自動車メーカーであるゼネラル・モーターズ(GM)が破産したほんの数年後にやって来た。どちらの破綻劇も、現実を早く直視しなかったことなど、様々な失敗が数十年間蓄積された結果だ。
これらはまた、米国には欧州に対し大きな優位性があることの象徴でもある。成功している事業や活動に成長の余地を与えるために見込みのない者を退場させることについては、米国の方が前向きなのだ。命運の尽きた事業に引導を渡せることは、弱さではなく強さの表れである。
もし欧州――特にユーロ圏――が危機を脱したいのであれば、この厳しいながらも愛のある米国のやり方を導入すべきだ。
巨大な組織が崩れれば騒ぎになるのは当然だ。GMで再編された債務の額は1720億ドルに上った。その本社があるデトロイト市が直面する債務も、同市の緊急財務管理者ケビン・オーア氏によれば200億ドルに達する可能性があるという。
この債務の大半は、自分たちの支払い請求は履行されると確信していた人々の損失だ。これは明らかに不公正であり、損失を被る債権者たちが――デトロイトの労働組合が連邦政府に支援を要請しているように――誰かにこれの穴埋めをさせようと手を尽くすのを責めることはできない。
しかしながら、総じて言えば米国は、結果がどうなろうと構わないという覚悟ができている。欧州に比べればそうだ。
以前は、常にそうだというわけではなかった。1975年には、財政危機に陥ったニューヨーク市に当時のジェラルド・フォード大統領が「くたばれ」と言い放ったと報じられた(実際にはそのような発言はなかった)が、最終的には支援の融資が実行された。
破産が終わりを意味しない米国、再起を果たすことに名誉
しかしここ数年は銀行(リーマン・ブラザーズや多数の中小銀行)、経済全体に影響を及ぼし得るそのほかの企業(自動車産業)、さらには多数の自治体が最寄りの破産裁判所に駆け込む事態となっている。
米国のこの厳しい対応には、それに見合う愛がある。この国では、リスクを取って失敗することは終わりを意味しない。再び立ち上がることが名誉とされる。破産すれば新たなチャンスが与えられるし、そうした場面で戦い続けることがこの国の文化では好まれる。米国経済のダイナミズムは、リスクを取ることに寛大な態度による部分が大きいのだ。
これに対しヨーロッパ人は、支払い不能の状態に陥ることをもっと悪く、道徳的な汚点だと捉える。昔から、破産することは信頼できない人物だという烙印を押されることだった。ビジネスの世界から完全に身を引いてしまったり、昔であれば自分の人生を終わらせたりしてでも隠そうとするような恥ずかしいことだった。
こうした見方は今でも、破産期間を12年間と定めたアイルランドのルールなど古めかしい法律に残っている(もっとも、アイルランドのこのルールはようやく改正されることになったが)。
失敗に対する欧州の文化的アレルギーがもたらす歪んだ政策
逆説的だが、失敗に対する欧州の文化的アレルギーは、リスクがあまり取られない状況を招くだけでなく、大きなリスクを取って損失を出した人々を救済する政策にもつながっている。今日の危機で欧州は、デフォルト(債務不履行)などとても容認できないと考えているために、破産者の債務を穴埋めする政策を選択している。そしてその結果、自らが苦しむことになっている。
ギリシャの事例ではこの構図がはっきりしていた。債権国側は救済など受け入れられないと主張したが、欧州の主権国家が債務の元利返済をしないかもしれないという見方の方がそれ以上に受け入れられないことだった。そして、最後の審判が下る日を先送りするために、ユーロ圏諸国が融資を行うことになり、国際通貨基金(IMF)もそこに無理やり参加させられたのである。
銀行が破綻した時にも同じ現象が生じていた。アイルランド政府は2010年、同国の複数の銀行のバランスシートにあいた穴を国民の税金で埋めようと、あらゆる手を尽くした。これらの銀行を支払い不能と認定し、小口の預金者を保護したうえで債権者に後始末をさせるというやり方を採らなかったのだ。
アイルランド政府はその後、国民の税金ではこの穴は埋めきれないことを理解し、それを見たほかのユーロ圏諸国は、アイルランドに力づくで資金を貸し付けて銀行救済を継続させた。破産を毛嫌いするこの姿勢は、スペインやそのほかの国々の銀行政策をも損なうこととなった。
通常のパターンではあるが、現実に直面したヨーロッパ人は考え方を変えざるを得なくなっている。例えば、ギリシャのソブリン債務は最終的には再編された(確かに、債務再編の利益の大部分が消えてしまう前にこれを実行するというわけにはいかなかったし、ギリシャ国債の保有者が自主的に行ったという偽りの看板を掲げることにもなったが)。
またキプロスの危機でも、金額こそ小さかったが、ロシア人預金者を救済するという提案は欧州北部の国々には容認できないものだった。
こうした教訓でさえ、理解されるにはそれなりの時間がかかる。米国では2010年に、大銀行の規模を段階的に縮小させて損失をその債権者たちに負わせる権限を政府が手にした。一方、欧州連合(EU)加盟国政府の大半は、この重要な法律を成立させる手続きにも取りかかっていない。
債権者に損失を求める「ベイルイン」の必要性については原則的には合意されているが、EU本部から成立を義務づけられるのは何年も先のことになるだろう。
もし、今回の危機が始まった時からユーロ圏が債務再編を実際的な政策として取り入れていたら、果たしてどれほどの資金が節約できただろうか。もちろん、その答えは誰にも分からない。しかし、数年間にわたって経済成長が失われた――目覚ましいとは言えないがまずまずの速度で危機を脱している米国と比べるならそうなる――ことの一因は、欧州がいまだに抱える過剰な債務に求められる。
米国では債務残高の急減を背景に、人々が再びお金を使い始めている。片や欧州では、自己資本があまりにも少ない(ほかの資金調達源が干上がっている時に債務の株式化を拒んだ結果である)ためにぐらついている銀行が経済の足かせになっている。
リーマン破産から欧米が引き出した異なる教訓
こうした指摘に欧州諸国は、米国のように破綻を容認すればどんなダメージがもたらされるかはその最悪の破産劇――リーマン・ブラザーズの破産――で明らかになったと反論できるだろう。もっともな指摘である。しかし、あの一件から米国人と欧州人が異なる教訓を引き出したことも、また事実だ。
米国は「大きすぎて潰せない」という考えに終止符を打つことに取り組んできた(まだ道半ばではあるが)。片や欧州は、キプロス危機まで正反対のことをやってきた。最も小さな規模な銀行の破綻に対しても、リーマン・ブラザーズのそれと同じくらい破滅的であるかのような対応を続けていたのだ。
F・スコット・フィッツジェラルドはこんな一文を残している。「私は以前、米国の生活には第2幕なんてものはないと思っていたが、ニューヨークの好景気の時代には間違いなく第2幕になるものがあった」。フィッツジェラルドが念頭に置いているのは、どんちゃん騒ぎの1920年代を静かにさせた1929年の株価大暴落だ。
米国が何度も見せてくれた教訓を欧州は今こそ学び取り、まず第2幕が始まるようにしなくてはならない。そうすれば、やがて第3幕が開く可能性も出てくるのだ。GMの時はそうだった。デトロイトでもきっとそうなっていくだろう。
By Martin Sandbu
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